「ヤンヤン 夏の想い出」
岩井監督コメント
| 「クーリンチェ少年殺人事件」をはじめて観たとき、どこか自分に似ている気がした。 そして今回、「A ONE & A TWO...(原題)」を観て、改めてその想いを強くした。 エドワードとは、数年前に台湾で出会った。ひょんなことから一緒にオムニバス映画を作ろうという話で盛り上がり、それはやがて「Y2Kプロジェクト」というレーベルに発展してゆく。香港からスタンリー・クワンを招き、単なるオムニバス映画から、もう少し広いテーマを模索する、「何か新しいもの」を指向するサークルへと姿を変える。僕らは東京で何度もミーティングを持ち、いろんなテーマについて語り合った。言語の違いはあっても、僕らの間に内面的な部分にギャップはほとんどなかった。結局僕自身は、このサークルの中で作品を残すことはできなかったが、その後につながる多くの素材を得た。最近取り組んでいる「リリイ・シュシュのすべて」も、このエドワードたちとのミーティングに刺激されて着想したストーリーのひとつである。 映画を創るプロセスには無数の選択肢がある。監督という仕事は、この選択肢を数限りなく選択してゆく仕事でもある。ふりかえれば無数の選択肢の痕跡が得体の知れないオブジェを形成している。それは監督の試行錯誤の残骸でもあり、それ自体が映画のウラの姿とも言える。そしてそこには作家自身が免れられないある種の癖がこびりついているものだ。癖というのは、本人にとって必ずしも歓迎できるものでもなかったりする。ああ、またこっちを選んじまったよ、というようなことはよくある。どうもエドワードとは、そういう癖がよく似ている気がしてならない。 それは個人的に会って話しているぶんには全然気づかなかった部分だ。しかしそれぞれが撮影現場というフィールドに立った時、無数の選択肢に囲まれた時、身体を動かしながら、無意識のうちに出てしまう癖。時には厄介なものだが、それが逆に作者の体臭を醸す要因ともなる。 創造の世界においてオリジナリティという概念なんてディベートの足しにもならないとは、常日頃の実感としてある。しかしもし映画にオリジナリティなんてものが存在するとしたら、この種の『癖』のことなのかも知れない。これも常日頃思うことである。 岩井俊二(いわいしゅんじ:映像作家) 代表作に「Love Letter」「スワロウテイル」「四月物語」など、その他、インターネットやCM等、多岐に渡って活動。現在は2001年公開予定のリリイ・シュシュのすべて)を制作中。ヤン監督の交友関係から「ヤンヤン 夏の想い出」では、予告編演出など積極的なエールを贈っている。 |